(2015年/アメリカ・カナダ)
これも予備知識なく鑑賞。
若干離れ目のヒロインはもちろん『スプリット』(2016年)のアニャ・テイラー=ジョイ嬢。
オープニング早々に、敬虔なキリスト教信者のアニャ嬢一家はその信仰が倦厭され村を追放となり、荒野に丸太小屋を建てて暮らし始めます。
しかし前回の『カルマ』といい、マーティン・スコセッシ監督の『サイレンス』といい、映画で描かれるキリスト教信者ってなんでこんなにズタボロなんでしょうね。光のような信仰とShitな現実世界の対比のためでしょうか。そして現実の余りのShitさに信仰心が揺らいでしまうという構図も共通です。「なぜ神はこんなにも我を苦しめ給うのか!」
本作でも離れ目のアニャ嬢=長女トマシン(なんて名前!)がちょっと目を離している隙に目の前の赤ちゃんが居なくなってしまい、母親が半狂乱。さらに長男のケイレブ(なんて名前!!)と森に入って、今度はケイレブと大事な馬が失踪・・・父親も母親も双子の弟妹もトマシンが「Witch(魔女)」だと疑い始めます。そして事態はさらに狂気な方向へ。
例によって色彩を抑えた画面や森などをしばらくじっと映すショット(「え?何?何かあるの?!」)には思わず引き込まれてしまって、恥ずかしながら電車を乗り過ごしてしまいました。しかも2駅も。
世間の評価はどうかといいますと「24の映画祭に招待されていずれも絶賛を浴び、第31回サンダンス映画祭で監督賞を受賞したのを始め、数々の賞を受賞するなど高い評価を受けた。」(WikiPedia)そうです。
映画としては優れた作品なのかもしれませんが、それにしても「信仰心」って一体何なんだろうと思わされますね。「光のような信仰」はShitな現実世界から追放され、あげく「闇のような邪悪」に取り込まれて為すすべ無し、なのでしょうか。
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