(1995年/アメリカ)
本作が「なんだかしんどそう」なのは「ハーレクイン的不倫賛美映画を誰がわざわざ観るもんか」という理由、一言でいえば個人的偏見です。「なんだかしんどそう」なのは当方なのでしょう、たぶん。
監督・製作・主演はクリント・イーストウッド御大。
クイーンはメリル・ストリープ嬢。WikiPediaによるとこの役には色んなキャスト案があったようなのですが、「平凡な主婦」と「ハーレクインな女」という絶妙なバランスはやはりこの女性でないと出せない味でしょうね。日本で言えば三田佳子さんのような。昼顔であひる顔の上戸彩さんなんかはちょっと時期尚早といいますか。あんまり詳しくはないですが。
そうはいってもそのお相手がイーストウッド御大というのは観ていてちょっと違和感がありました。これもブラッド・ピットみたいなのだったら違うんでしょうけれど。そもそも誰が何と言おうと監督・製作・主演イーストウッド御大、文句などございません、はい。
アイオワ州マディソン郡のアメリカンカントリーな風景とアメリカンカントリーな一家でひとり留守番中の主婦、そこにひょっこり現れる老カメラマン・・・というくだりから主婦が自宅にお茶に誘って、夕食に誘って、また翌日夕食に誘って・・・までが長いのです。観ている誰もに「おいおい、ハーレクイン的展開はまだなのか!」とヤキモキさせるこの手法、そうです『ポルターガイスト』のツカミと同じですね。起こるはずが何も起こらない、というハプニング。
そうやってじっくり、しっかりと客をツカんで、それからの展開は大胆に説明をカットしながらババッと畳み掛けるんですね。たとえば奥さんが御大を取るか、家族を取るかはピロートークで七転八倒あったと思われるのですが、それは翌朝食卓での「それでも家族を選ぶのか」という御大の一言に集約。昼顔的泥沼は綺麗さっぱりカット。
こういうのは『アメリカン・スナイパー』でも顕著でした。スナイパーが帰還中の家族とのやりとりはカット。でもそこに醸される違和感・孤独感のようなものはしっかり伝わってきます。職人芸。
母の遺産分けで集まった子どもたちが見つけた手記を回想するという「入れ子」な構成も良かったですね。「なんだかしんどそう」だった息子の変化が映画の良いガイド役になっていました。
というわけで、誰がわざわざ観るのか知れないハーレクイン的不倫賛美映画で、早朝5時半からおっさんひとりハンカチを噛み締めての号泣、また号泣・・・「なんだかしんどそう」なのは当方なのでしょう、間違いなく。
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