(2016年/アメリカ)
遠藤周作原作、マーティン・スコセッシ監督作品ということで、死ぬまでには観ておかなくてはならない一作ながら、遠藤周作作品の薄暗い世界観が苦手な当方、出来るだけ避けてきましたが観念して鑑賞。
オープニング。製作・配給のロゴが浮かぶ中、虫の音だけがどんどん大きくなってきて「おいおい、クレッシェンドしすぎでは?」と思った瞬間、スパッと音が消え、画面に白い文字で
「Silence」
格好良い。
「江戸時代、隠れキリシタン弾圧のため踏絵が用いられた」という歴史の教科書のたった1行をスコセッシ監督が159分で表現するとこうなる、という映画です。
いつも1本の映画を何回かに分けて鑑賞しているのですが「ああ、またスコセッシ監督のいじめ映像を観ることになるのか」と。なんせ159分ですから結構な回数げんなりしながらリスタートボタンを押すことになります。なんせタイトルからしてキリシタンたちがどんな理不尽な迫害による拷問や処刑をされても、救いの神は「沈黙」を続けるに違いないので。
イッセー尾形氏演ずるイノウエサマ、浅野忠信氏演ずる通訳の役人は絞め殺したいくらいに冷酷、二人のポルトガル宣教師のそばで軽薄に立ち回る隠れキリシタン、キチジロー窪塚洋介氏はどこまでが役なのか地の性格なのか判別しかねるハマリぶり。「礼儀正しい、おもてなし」の日本人像はどこへやら、「これじゃナチスと同じじゃないか」と。
そんな映画も終盤に差し掛かり、拷問の末棄教したリーアム・ニーソン元神父が『ザ・シークレットマン』に続く「静」の演技で、宣教師と話しているのを観ながら、ふと思う。
「日本人の言ってることはある意味正しいのではないだろうか」
あれ?いやいや、散々理不尽な迫害や弾圧ぶりを観てきたはず。そんなはずがない。浅野通訳が言う。「なぜ踏絵ができないのか。ただの形式じゃないか」
それまで「迫害者である日本人はなぜ踏絵という形式にこれほどこだわるのだろう?」という視点でしか観ていなかったのですが、「それを踏まないという反応も同様形式にこだわっているだけなのではないか」と。
屁理屈みたいな話ですが、日本側は「キリスト様の描かれた板を踏め」と言っているだけで、「キリスト教を捨てろ」とは言っていないわけです。「板を踏むこと=キリスト教を捨てること」という形式に縛られているのはむしろキリシタン側であって、リーアム元神父も窪塚キチジローもそれを超えた境地に立っている、と。
実は序盤にその伏線があって、二人の宣教師が隠れキリシタンたちに「キリスト様の偶像」を欲しがられて「偶像にすがるのは危険だ」と述懐しながらも持っていた全てのモノを渡すシーンがあります。そこにいたキチジローにロザリオの珠を渡そうとすると彼はそれを拒否して走り去ります。
「絶対悪にしか見えなかったものが、視点を変えるだけで違ってみえてくる」という西加奈子さん的転換をまさかこの映画で味わうことになるとは思いませんでした。(もちろんどのような迫害や弾圧も絶対悪であることに変わりはありません)
「江戸時代、隠れキリシタン弾圧のため踏絵が用いられた」という歴史の教科書のたった1行でスコセッシ監督が「信仰」を表現するとこうなる、という映画です。
コメント
CPさんおっしゃる通り「絵を踏むとか自分の信仰と関係ないじゃん」って単純に私は思ってしまうのですが、宗教は哲学と違い社会的に運用され、独自の文化を形成するものなので、それぞれに譲れないものがあるんでしょうね。
そしてまた極限の状態になればなるほど、人は深く信仰に帰依していく様な気もします。先日九州の隠れキリシタン達の教会や文化が世界遺産になっていましたが、継承されている儀式などはもはやキリスト教徒は少し違う土着性を帯びたものになっている様に感じました。
私としては、平和ボケと言われようが、これからも八百万の神々に感謝しながら都合良く生きていければと思っています。
「宗教は哲学と違い社会的に運用され、独自の文化を形成する」なるほど、映画の中でお互い拒んでいたのは宗教というよりは互いの文化だったのかもしれません。
そして「極限の状態になればなるほど、人は深く信仰に帰依していく」というのは弾圧する役人のセリフとして出てきます。だからお前(=宣教師)を殺さないのだ、と。OJさん、どこかの赤ちょうちんでスコセッシ監督と飲み明かしたのではないですか?
本作のテーマのひとつに「死んでしまうくらいに何かと対峙するような生き方だけが強さなのではない」ということがあると思うのですが、OJさんの仰るように「感謝しながらしなやかに」というのも(これも映画の終盤で描かれているのですが)実に強くて美しい生き方ではないかと。赤ちょうちん、間違いないですね。
やっぱりあの時の先輩、スコセッシさんだったのか!
次の機会には是非ご連絡下さい!