「キセキ」考

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ここ何年もヤングな曲をちゃんと聴く機会というのがなかったのですが、ピアノアレンジを依頼されたのでヨウツベ動画で何回も某GR××××Nの「キセキ」という曲を聴きました。

「最近の若いもんは・・・」みたいな話になって恐縮なのですが、曲はともかくとして歌詞が伝わってこないんですね。もちろん云わんとしていることは分かるのです。もう彼女のことが好きで好きでしょうがないんですよね。「会えて良かった」「付き合えて良かった」と。そりゃ良かったですが、そんなこと言われても「良かったねぇ」としか言いようがない。こっちは素面だし、酔っ払った勢いのようなこと言われてもリアクションの仕様がない。

つまりそこには「ストーリー」がないわけです。「会えて良かった」「付き合えて良かった」と繰り返してるだけ。伝える側としてはひとまずそれは神棚かなんかに置いておいて、それを「ストーリー」にぶち込む必要があるのです。それが上手くいけば、神棚に置いてある言葉を一言も発することなく、聴き手の方で疑似体験を通じて自発的に「あぁ、このふたり、会えて良かったんだな。素敵だな」とその言葉を発してくれる。伝えたい思いを(たとえば「曲」という媒体を通じて)聴き手の方で発生させるということが歌詞のひとつの醍醐味です。

ところが小学生の夏休みの日記よろしく「海でいっぱい泳いで本当に楽しかったです」みたいな歌詞に終始するので、聴き手が疑似体験できず「同意」は出来ても「共感」にまで至らないわけです。「そりゃ楽しかったろうけど、こっちはこの夏、海に行けなかったし」で終わってしまう。

赤ペン先生よろしく細かいところをツッこむときりがないですが、例えば「永久の愛を形にして」って、具体的にはどういうことなんだろう?想像もつかない。前後の文脈からも推測できない。石碑かなんかにそういう文言を刻んだのを生前に月賦で購入しておく、ということかな?よく分からない。

前後の文脈から「永久の愛を形にする」ということが、「2人寄り添って歩く」ことであったり、「いつまでも君の横で笑って」いたりすることであるというのならば、「永久の愛」なるものは新婚生活のママゴト気分のごときものである、ということになりましょう。そりゃあまりにも甘いよ、君たち。

「キセキ」がなんでカタカナなのかな、と不思議だったんですが、この文章を書くためにあらためて歌詞を見て納得しました。

(1)二人で歩んだ日々の「軌跡」
(2)二人が出会えた「奇跡」

ダブルミーニングになっていたわけです。なるほど!!そんなことばっかりに頭を使ってる(使ってない?)からこんなことになるのです。それはまるで「基石」のない建築物のようなものではないか、と。確かにそこに建ってるけど入る気がしない。

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